恋したくない新党

ハロプロがすき

お笑いで言うところの爆発が、わからないよ〜

今週のお題「爆発」

お笑い賞レースでよく「爆発が足りなかった」というコメントを見聞きする。決勝戦の審査員のコメントの場合もあるし、予選を生で見た観客のレポツイであったりもする。

この「爆発」がいまいちピンとこない。

2019年M-1決勝のミルクボーイ1本目とか、タロウ5のオープニングコントとか、確かに今まさに「爆発」しているかもしれないな……と感じることはあるのだが、賞レースにおける「爆発」の基準と、「爆発」が求められる理由がまだよくわからない。

普段見ているコントや見たいコントって、ぼーっと眺めているうちにその世界に没入していって、気付いたら口角が上がったまま下がらなくなっているようなものが多い。腹筋がちぎれそうになる笑いや電車内でも堪えきれずに声が漏れてしまう笑いもその延長線上にあって、いつどのセリフで笑いが爆発したのかを意識することはない。

でもこれ、生で、大勢の観客に囲まれて、2時間も3時間も見続けたら違うんだろうなあ……と思う。

2020年以降のお笑い赤ちゃんなので、コントを見るのはもっぱら配信だ。コントを見ることがあまりにも日常で、誰かに隠れてこっそり見るものという無意識から逃げられない。今年に入ってからはたまに劇場に足を運ぶようになったものの、相変わらず隣の席は空いているし閉演後に誰かと語り合うわけでもない。しかしそれでも、客席全体が揺れるような感覚を味わうたびに、家でひとりで見るコントとは全く違う感動がある。

劇場でコントを見ていると、客席の笑い声に「あ、ここが笑いどころなんだ」と気付かされることがしばしばある。面白くなかったわけではなくて、ひとりで見ているときには気付かない笑いどころというのがある。そういうのが導火線になって爆発が起こるのかもしれない。

お笑い赤ちゃんなので、お笑いのリテラシーみたいなものが全くない。純粋に面白いと思うもののほかに、経験的な面白さがある。昔見たバラエティーやドラマのワンシーンとか、みんなが共通して持っているモノマネのイメージとか、いわゆる「お決まり」とか、そういうものだ。確かにずっと日本で暮らしてはいたけど、お笑い、特に賞レースを見るときに十分楽しめるほどにテレビを見てこなかったのだと自分で思う。それを人並みに人と同じところで笑えるようになるまでお笑い好きと言ってはいけないような気もする。

純粋に面白いものを見て笑うとき、周りに他人はいなくて、ただコントの動画と私だけが部屋にいる。劇場でユニットコントや事務所ライブを見るとき、テレビで賞レースを見るときは、周りにもっとお笑いリテラシーの高い観客と実在の芸人、審査員がいる。絶対的な面白さを評価するために「爆発」が必要なのだとすれば、早く「爆発」がわかるくらいのお笑いリテラシーが欲しいなあ。と、考えながら今日もテレビとラジオに浸かるのであった。